LOGIN沙耶が視線を落とし、ぽつりと漏らした。
「七海ちゃんの好みも、生活のことも、私は悠人さんから教えてもらったことばかりです。ハンバーグの玉ねぎは小さく刻まないと食べないことや、寝る前に右のお耳を触る癖があることや……木曜日は真帆さんが編集会議で遅くなるから、七海ちゃんが寂しがっていること……」 真帆の足元から、すっと血の気が引いていくのが分かった。 七海の細かな癖。料理の好み。真帆の仕事のスケジュール。 真帆しか知らないはずの、家庭の内部の密やかな情報が、すべてこの女の口からスラスラと出てくる。 ストーカーが調べ上げた知識ではない。 夫が、内側から垂れ流していたのだ。「なぜ……そんなことまで、あなたに話すんですか」 真帆の声は震えていた。「あなたとあの人は……どういう関係なんですか? 不倫しているんですか?」 直球の問いかけに、沙耶の顔から感情が消えた。「はい。私は戸惑いました……でも、七海ちゃんが嬉しそうにそう呼ぶのを見ているうちに、自分でも歯止めが効かなくなってしまったんです。『沙耶ママ』と呼ばれるたび、失った莉央が戻ってきたような錯覚に囚われて……拒絶できなくなってしまいました。それは……私の弱さです。ごめんなさい」 沙耶は深く頭を下げた。 真帆は沙耶の謝罪を素直に受け取る気にはなれなかった。彼女が七海に莉央を重ね、無断で贈り物をし、境界を踏み越えてきた罪は消えない。 その越境を、夫の言葉が後押ししていた可能性を思うと、真帆の背筋が凍りついた。「じゃあ……物について整理させてください」 真帆はバッグからノートとペンを取り出し、テーブルの上に広げた。感情的なやり取りに流されないよう、自分の理性を繋ぎ止めるための動作だった。「七海の部屋にあったものや、家に持ち込まれたものについてです。あなたが実際に七海に渡したものはどれですか?」 沙耶はノートの空白を見つめ、記憶を辿るように指を折った。「……青い星の髪留め。それから、森の鳥の絵本。あと、動物のぷっくりしたシールです。髪留めは……莉央が最後に欲しがっていたものと同じデザインのものを、街で見つけてしまって……抑えきれずに渡してしまいました」「それだけですか?」「え?」「ラベンダー色のレースのハンカチは? キッチンにあった、海外ブランドのアールグレイの紅茶は? 玄関の予備の合鍵は?」 沙耶は目を丸くし、きっぱりと首を横に振った。「ハンカチも紅茶も知りません。鍵なんて、持っているはずがありません。私が篠宮さんの家に行ったことなんて……」 沙耶の言葉が止まった。 何かを思い出そうとするように、彼女の瞳が揺れた。「……行ったことがない、と言い切れますか?」 真帆が追及すると、沙耶は困惑したように額を押さえた。
真帆の声に、硬い響きが混ざった。「ええ。真帆さんはキャリア志向が強くて、子どもよりも仕事を優先する人だから、家庭の温もりを七海ちゃんに与えられていない……そう聞いていました。悠人さんは『君なら、莉央に注ぐはずだった愛情を少しだけこの子に分けてあげられるだろう』って……。それでも私は何度も断りました。でも、悠人さんは時々七海ちゃんの写真を送ってきて、『真帆も、教室で会うだけなら構わないと言っている』と繰り返したんです」 真帆の手の中で、おしぼりの袋が小さくクシャッと音を立てた。 真帆が仕事を頑張っていたのは、育児を放棄したかったからではない。残業や出張が増えた時期も、悠人と話し合い、互いに調整しながら乗り切ってきたつもりだった。 それを悠人は、沙耶の前では「家庭を放棄した冷酷な妻」として語り直していたのだ。「それで……教室に連れてきたんですか」「はい。二年前の五月です。悠人さんが七海ちゃんを私の造形教室に連れてきました。その時は『昔からの知人の沙耶先生』として紹介されたんです。七海ちゃんも最初は『先生』と呼んでいました」 真帆は身を乗り出した。「じゃあ、いつから……いつから七海は、あなたのことを『沙耶ママ』と呼び始めたんですか?」 一番確かめたかった問いだった。 七海が当然のように口にした「もう一人のママ」という呼称。それが真帆の平穏な日常を叩き割った最初の亀裂だった。 沙耶は驚いたように真帆を見つめ、それから切なそうに眉をひそめた。「……あれは、半年前のことです。七海ちゃんが教室で工作をしている時に、間違えて私のことを『ママ』って呼んでしまったことがあったんです。子どもによくある言い間違いです。私はすぐに『沙耶さんでいいんだよ』って言い直させました。何度も、そう教えました」「言い直させた……?」「ええ。当然です。私にはそんな立場も資格もないんですから。でも……」 沙耶の声が沈んだ。
午前十一時のファミリーレストランは、郊外の幹線道路沿いという立地もあって、店内にはまばらな客しかいなかった。 ドリンクバーの氷がカチャンと落ちる音と、ファミレス特有の低いBGMが広いフロアに漂っている。窓際の4人掛けボックス席の片隅で、真帆は冷めきったストレートティーのカップを両手で挟み込んでいた。 向かい側に座る水城沙耶は、黒いカーディガンの袖をきつく握りしめたまま、テーブルの木目をじっと見つめている。目元の赤みは引いていたが、皮膚の薄い頬は痛々しいほど白く、光を反射していた。 昨日の参観日の後、真帆は七海を自宅へ連れ帰り、夕飯を食べさせ、早く寝かしつけた。そして夜、悠人が書斎でパソコンに向かっている間に、短く沙耶へメッセージを送ったのだ。『明日、話す時間を作ってください。悠人には秘密で』 沙耶からの返信は、数分もしないうちに届いた。『わかりました』とだけ書かれていた。 互いに、まだ完全な信頼など存在しない。 沙耶は七海に無断で近づき、髪留めや絵本を買い与え、参観日にまで足を運んだ「境界を越えた女」であることに変わりはない。真帆にとっても、沙耶の存在そのものがここ数週間の不快感と脅威の象徴だった。 けれど、二人の間にある溝が、もしかすると悠人の言葉によって広げられてきたのかもしれない――その予感だけが、二人をこのテーブルへ向かわせていた。「……何から、話せばいいでしょうか」 沙耶が小さく掠れた声で言った。 真帆はカップをテーブルに戻し、指先を揃えた。「最初から。七海とあなたが、初めて会った日のことから話してください」 沙耶は息を小さく吐き出し、ゆっくりと頷いた。記憶の底をすくうように、ぽつり、ぽつりと言葉を拾い集め始める。◇「三年前の春でした」 沙耶の視線が、グラスの氷へと落ちる。「悠人さんから突然、七海ちゃんの写真が届いたんです。それまでは……離婚してからの六年間、莉央の命日に『今年も花を置いた』と短いメールが来るだけでした。返信もしない年の方が多かったくらいです」 真帆は黙
沙耶の指先が、真帆の服の生地をきつく締め上げた。 その爪が白く変色するほどの力だった。「今度こそ……って、どういうことですか?」 真帆が問うと、沙耶の瞳が激しく揺れた。「あの人は……壊れているんです。自分では絶対に悪気がないと思っているからこそ、誰も止められない……。自分の思い通りに家族が動かないと分かった時、あの人は……」 沙耶の言葉が詰まった。 息を荒げ、胸を押さえる。過呼吸に近い状態になりかけていた。「何があったの? 九年前の事故の時、何があったんですか!?」 真帆が沙耶の肩を掴み、問い詰めた。 沙耶は涙に濡れた目を固く閉じ、頭を左右に振った。「分からない……分からないんです……!」 沙耶の声が、歪んで響いた。「事故の時……車の中で離婚の話になって……悠人さんが『家族を壊すな』って叫んで……。私は助手席側から何かが大きく動いたのを見たの。ハンドルが急に重くなって、制御が効かなくなって……」 真帆の息が止まった。「……悠人が、ハンドルを……?」「分からない! 警察にも、悠人さんにも『お前が取り乱して急操作したんだ』『俺は何もしていない』って言われ続けて……! 何度も何度も言われているうちに、自分が間違っていたんだって……自分の感覚の方がおかしいんだって、そう思い込まされて……!」 沙耶は自分の頭を両手で抱え込み、小さく丸まった。「私……見たものはあるんです。確かに見たの。なのに、あの人に違うって言われ続けて……今は、自分の方を信じられない……!」
真帆の声が、喉の奥で押し潰された。 真帆は一度だって、家庭を捨てるつもりなどなかった。残業が増えていたのも、家族との時間を確保するために効率化を図り、新しいプロジェクトを軌道に乗せようと必死に働いていたからだ。 もし沙耶の話が本当なら、悠人は沙耶に対して、真帆を「娘を置いて出ていく人」のように語っていたことになる。 一方、真帆には「沙耶は頭がおかしくなって執着してくる危険な女」だと説明していた。少なくとも、二人が聞かされていた話は、同時には成立しなかった。「悠人は……そんなことを言っていたの……?」「ええ……。参観日のこともそうです。『真帆も分かってくれているから、外で待っていれば七海に会える』って……。だから、私はここに来たんです」 沙耶は両手で顔を覆い、激しくしゃくりあげた。 真帆はベンチに座ったまま動けなくなっていた。 目の前の女を、ただ「我が家を奪いにきた侵入者」とだけ決めつけることが、真帆にはできなくなった。 沙耶自身もまた、悠人から真帆とは違う説明を聞かされ、それを信じて動いていた可能性がある。 不倫。乗っ取り。復讐。 そうした分かりやすい悪意だけでは説明できない何かが、二人の間に横たわり始めていた。 その中心にいるのが悠人なのかもしれない。疑っては打ち消してきた顔を、真帆はもう頭から追い払えなかった。◇「悠人さんは……」 真帆は声を絞り出した。「私とあなたに、まったく違う話をしていたのね……」「そう……みたいです……」 沙耶は涙を拭い、真っ赤になった目で真帆を見つめ返した。「私……あなたから『二度と近づくな』ってメッセージが届いた時、本当に自分が罪深いことをしているんだと責めました。でも……悠人さんは『真帆は感情的になっているだけだ。君が
公園の脇にある古い木製のベンチに、二人は距離を置いて腰掛けた。 七海が少し離れた遊具の周りを歩いている姿が、生け垣の隙間から見えている。 真帆は膝の上で両手を固く組み、冷え切った指先同士を押し付け合った。「私は、九年前の事故のことも調べました」 真帆が切り出すと、沙耶の身体が目に見えて強張った。カーディガンの生地越しに、彼女の背筋がピンと伸びるのが分かる。「莉央さんが……七歳で亡くなったことも知っています。悠人から聞きました」「悠人さんから……なんて?」「沙耶さんの運転ミスで事故が起きたと」 真帆は悠人の言葉をそのまま口にした。「あなたが車内で取り乱して急ハンドルを切った。事故のあと精神的に不安定になって悠人に執着したから、離婚せざるを得なかった。……そして、七海に会わせているのは、立ち直れないあなたを哀れんだ悠人の善意だと」 沙耶は息を呑んだ。 その顔から、急速に血の気が引いていく。白い肌がさらに青白くなり、薄い唇がわなないていた。「……善意……?」 沙耶の声は、掠れ声となって漏れた。「あの人が……そう言ったんですか? 私が執着して、あの人が善意で会わせてくれていると……?」「ええ。そう言って私をなだめようとしました」「違う……違います!」 沙耶が激しく頭を振った。膝の上に置いた小箱のリボンが、彼女の震えに合わせて揺れる。「最初に連絡したのは、私じゃありません! 三年前、最初に七海ちゃんの写真を送ってきたのは悠人さんです!『莉央に似ている子がいる』って……『一度会ってみないか』って、何度も何度も連絡をしてきたのはあの人です!」 沙耶の目から、溢れ出た涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。「私は怖かった……莉央を死なせた私が、新しいお子さんに近づくなんていけ